「多数決はナシ」の理由とは?
「みんな違っていい」は対立を覚悟すること。
「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方。
多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎる。
共通の目的を探し出す、粘り強い対話の力こそ必要だ。
深く共感する、工藤勇一先生のコトバです。
のびーくで話し合いをするときは、「多数決はナシ」をルールにしています。
「みんなが賛成できるもの」ではなく、
「イヤだというひとがひとりもいないように」と伝えています。
「イヤだというひとがひとりもいないように」と伝えています。
ある日のこと。
「映画会をやろう!」ということになりました。
「ぜったいにぜったいに○○がいい」というA君。
「△△がいい」と言っていたB君も、
「○○じゃなきゃ絶対にだめ!」というA君を前に、
最後は、「じゃあ……。○○でもいいよ」と迷いながらも譲歩しました。
でも、黙って聞いていたC君は、あまり気がのらなそうです。
「C君はどう?自分の気持ちを言ったらいいよ。
無理に決める必要はないんだから」
ちょっと背中を押してみると、
「うん…。○○は興味ない」。
「じゃあ、□□でもいいよ」
ここで、A君が代案を出しました。
結局、今回は映画会はやらないことになりましたが、
「じゃ、工作やろう!」とみんなすっきり。
着地点をさがしてもっと粘り強く話し合うこともあれば、
途中、バトルのようになることもありますが、
「だれもいやな気持ちにならないこと」を求めています。
自分の意見をいう。人の意見をきく。
それができるのは、心理的安全性が保障されているから。
「何をいっても大丈夫」と思えることが大事です。
対話の過程では、対立も起こるし、感情が波立つこともあります。
でも、大丈夫。
そのあとはいつもどおりの仲間。
そう思ってもらえるよう、
ちょっと気持ちが緩むような言葉をかけたり、
矢を受けて立ったり。
つぶされてしまうような対立に陥らないよう、さりげなく立ち回っています。
それぞれのよさをみんなが意識できるような言葉かけも、日頃から続けています。
自分も相手も受け止められる、対話できる人になってほしいから。
学校のように「教えられる場」ではないですが、
「主体的で豊かな学びの場」でありたいと、つねに考えています。
そのために、子どもたちの苛立ちを踏ん張って受け止め、メッセージを伝え続ける。
そんな努力をし続けたいと思っています。
「好きなことをやってるだけ」
そんな風に思われることもあるようですが、どうでしょうか。